英国の実業家ジョン・ダッドは、台湾北部へ中国の安渓県から茶の苗木を紹介し、厦門と福州の職人を使って烏龍茶を精製しました。烏龍茶は米国への輸出で広く評価され、台湾の茶産業のトレンドをもたらしました。彼は「台湾烏龍茶の父」としても知られていきました。 1869年、初回にして21万kgのフォルモサウーロン茶(台湾烏龍茶)が台北の大稲埕からアメリカのニューヨークに輸出されました。

「台湾の紅茶の黄金時代」1895年の下関条約の調印後、日本が台湾を開拓し始めた頃、台湾が英国の実業家によって烏龍茶を作っていたことが発覚し、日本政府はこの木を研究して紅茶試作を始め、戦争と国際情勢の為、日本政府は台湾からの輸出は紅茶に切り替えました。1906年、台湾で最初の紅茶はロシアに輸出されており、当時ロシアに輸出されていた紅茶は今では想像できないものだと思います。[赤レンガ茶]。

1930年、世界では過剰生産が起き、価格混乱を招いた事によりインドやスリランカなどの紅茶生産国は【國際茶葉限產協定】を締結しました(1933-1940)。台湾の紅茶は生産が制限されていなかったため、台湾の紅茶生産が増加、台湾の紅茶の黄金時代が始まりました。 1945年に中国管理下に入り、台湾は外国人商人の提案により緑茶の開発を開始しました。緑茶の輸出売上高は年々増加し、紅茶は年々減少しました。

1970年紅茶の暗黒時代から1990年まで台湾紅茶市場が脚光を浴びることはありませんでしたが、タピオカミルクティーが考案されてから、台湾での紅茶販売量は上昇、しかし当時使用されていたすべての紅茶原料がインドやスリランカなどで、1999年まで台湾紅茶という言葉は耳にしませんでした。1999年9月21日、台湾は9月21日の深刻な地震に見舞われ、魚池町は非常に深刻な被災地でした。台湾政府は、震災後[1町、1特産]の地域産業の活性化計画を推進し、1999年に魚池町はTaicha No. 18紅玉を役場、農業組合、茶産業農場、農民が共同で開発、発表し、広告と企業採用等の助けも借りて、日月潭の主な名産として広く人々に知られるようになり、長く失われた台湾の紅茶時代を復活させました。

「世界の烏龍茶の先駆者」

前回の記事で紹介した台湾の烏龍茶の父、ジョン・ドッドは、清時代に台湾の烏龍茶輸出産業を設立した第一人者と言えます。1864年、樟脳とお茶に着目し、福建安溪から茶の苗木を持ち込み、技術を指導し栽培させ、資金提供し茶工場を設立させました。その工場から烏龍茶を購入し、輸出する会社を作りました [怡和洋行](東洋最大英国企業)「FormosaOolong」という名前を使用し、台湾の烏龍茶を全世界に輸出していきました

日本統治時代、政府は紅茶産業確立に焦点を置き、紅茶輸出は徐々に増加し、主要な輸出品目となりました。1945年の日本敗北後、台湾は紅茶輸出市場を開拓し始め、1960年代に緑茶が輸出主要項目となりました。1930年代紅茶黄金時代、1960年代緑茶黄金時代、両者の中でも台湾烏龍茶はある程度の輸出がありましたが、ジョン・ドッド時代以降、台湾烏龍茶は市場の主役ではありませんでした。1975年以降世界の深刻なエネルギー危機が発生し、台湾の紅茶製品の輸出が中断され、台湾烏龍茶は市場の舞台の中心に返り咲きました。

1975年は台湾のお茶産業にとって重要な境界線でした。1975年以前は、台湾のお茶の殆どが主に輸出されていました。当時台湾の一般の人々はお茶を飲みませんでした(裕福な人々だけがお茶を飲む習慣がありました)。1975年の世界エネルギー危機が起きましたが、台湾は10大建設期により台湾全体が繁栄していたため、台湾の人々はあまり危機を感じませんでした。世界的なエネルギー危機と台湾ドルの高騰により、台湾のお茶の輸出は中断されましたが、その中断により台湾の国内販売への切替のポイントにもなりました。当時、コーヒーが人気の飲料でしたが、農林省は外国での烏龍茶の健康に関する研究結果に目を向け、公開することで烏龍茶を台湾の一般大衆に広めていきました。

1982年に製茶管理規則が廃止され、台湾の農家が自作を始めました。自作、自家マーケティングによりブランドが互いに競争し、台湾の烏龍茶は飛躍的に発展しました。

1980年代に台湾の人々は裕福になり始め、氾濫時代が始まりました。初期、台湾の茶藝館は富裕層向けの遊び場(麻雀、会議、お見合い)として徐々に増えました。この時期に、台北の紫藤廬、太中の陽羨茶行(春水堂の前身)などの有名な茶藝館もできました。茶藝館の需要が増えた為に地方のお茶が増え、当時の東丁大龍茶や東方美人、鐵觀音、文山包種茶などの地元の特製茶が有名になりました。

また茶芸館の需要から、1981年に茶産業改善センターが発売した新種の大茶12号と大茶13号は、エレガントな[金萱]と[翠玉]という名前になっています